昭和42年05月07日 夜の御理解
只今、御祈念にかかる前に、永瀬さんが、お役所の方から宮崎の方え、一晩泊りで慰安旅行に行っておられまして、今帰られたんです。総代会があっておりますから、丁度間に合った訳ですけれども、お土産にといってから、こういう物を頂いたんです。これは宮崎の土偶ですね、是はもう何千年前ですかね、家の宝物用にして作って、是を飾った物らしいですね。こういうのは、まだ人間大の大きいものもある。
私はこれを見ておると、もうなんともいえない何て云うでしょうかね、人間的と云うか、人間の素晴らしさ、良さと言う様なものを何でもない、その変哲のないですね、ちょっと鼻を付けて、目を付けて手でひねった様な焼き物の人形の中に、なんともいえん素朴の味合と云うのを感じるんですよね。本当に、あの教祖の神様の御信心というのが、こう言う様な感じの信心でおありになっただろうと思います。
それこそ、あの土の中から生れた様に、たとえば繁雄さんやら、久富義孝さん達のような、土の様な感じの手で、合掌される姿を思うただけでも、胸がなんか熱くなる気がしますね。そういう中から生れたんですよ。金光教の信心は。ですからね、りくつとか、そんなもんじゃないです。ただ、此の方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんとおっしゃるのだから。
本当に一切を喜びで受けさせて頂こうと、喜べない事があっても、喜びで受けさせて頂こうと、稽古して行く他ない。だから、結論すると、お道の信心はもう有難くならせて頂く稽古だと、そういう表現がです、金光様の信心にピッタリだと思うんです。もう理屈はないです問題は人間の幸福というものは、どんな場合でも有難いと云う事なんですから、だから結局は有難くならせて頂く稽古なんです。
有難うならせて頂く為に修業する、御教えも頂くお参りもする。御用もさせて頂くのですよ、その有難いという心にですね。おかげがそれこそ尽きぬ程のおかげがあるのです。おかげは和賀心というのはその有難いという心なんです。有難うならせて頂く、頭が良くなければいかんとか、器量が良くなければならんと云う事はない、それでも思うんですね、なんとか純真無垢というか、この土偶の人形に見る様な。
その美しさと言った様な物を備えて行きたいと。先程、私、夕食をさせて頂きよりましたら、栄四郎が 私と家内が一緒に夕食を頂いておりました時、お母さん、昔の男と女は、今の男と女とどげん違うのと。なんか学校で調べものをしなければならないらしいですよね、どげな風にやと、聞いた所が、そのお母さんどんの時分の女は、どげんしとったのと、現代の女はこんなじゃろうがと、こういう訳なんです。
ははぁそういういわゆるその現代気質の男女にね、昔時代の気質の事を尋ねている訳なんですよ、で私が申しました栄四郎君お父さんが云う事を書きなさいと、あのね昔から日本の男女にはねこう云う様なその言葉が難しいなら、伝統といいますかねそういう良さというもの、それはねお爺さんは山に芝刈りに行くのぢゃと、お婆さんは川に洗濯に行くそれは桃太郎さんの話しそうなんだと桃太郎さんの話しなんだと。
それがね、男と女の在り方なんだと、お爺さんは山に芝刈りに行くのだと、女は洗濯をするのだと、それをその男女同権だというてからね、あんただって洗濯しなさい、と言う様な事になって来る所に、その現代気質のややこしさがあるんだとね。もう本当に昔の、いわば昔のというか、そういう伝統の素晴らしさという素朴な、男は外で働く、女は内で家を守ると言う様なありかた。
その中に男女同権の本当の素晴らしさというものを、発見して行けば良いのだけどもややもすると、それを間違える所に金光様の御信心でも同じ事なんです。結論すれば教祖の神様の本当に御自分でも仰る様に、無学の百姓で何も相分らずとその相分らない教祖の神様が、天地の道理を悟られた天地の大恩を分られた、そして天地の恩徳に神恩感謝の真をささげておいでられた生活が、教祖の神様の御信心生活であった。
そういう意味で、私はそこの篠原さんやら、久富繁雄さん当たりの信心にも、本当に一つの、なんというかね、その全貌というかね、その素晴らしさを感じるのですよ。キザでないです、唯こう何かを話しなさいと言っても話しきらん、けれども、金光様の信心ちや、結局有難うなる稽古じゅろうもん、と、是だけなんですね。そしてどの様な場合にでも。本当に有難うならせて頂く稽古に、精進させて頂くと云う事。
それは丁度教祖の神様の御信心を、今日私がそこに頂いている、男女一対の土偶の人形の様な物だと、こう思うんですよ。ご覧なさい、見れば見る程とても素晴らしいんです。此の人相。それがどうかというと、鼻をちょっと付けたばっかり、目をちょっと、こう小刀でキズを入れたばっかりと、いった感じの人形の中に、何とも云えん一つの、美と言う物を感じる事が出来る。
極彩色の博多人形、成程、是もまた素晴らしい、けれども何の変哲もない、手でひねった様な、この人形の中にはもっと深みのある美しさを感じる。金光様の御信心をさせて頂いたら、勉強はいらんか、お話はいらんかというと、そうじゃない。絶えず勉強もしなければならない、いわゆる極彩色の人形が、いけないと云うのじゃないのです。けれども、こういう中にややもするとお互いは、美しさというものを見失ってしまうのです。なんか難しい、理屈ばった、理論ばった。
いわゆる哲学的なお話でもしなければ 金光様の信心が解ってない様な、考え方は間違いなんです、とにかく金光様の御信心とは、有難くならせて頂く稽古をするだけなんです。朝、早起きするのも、一生懸命御用を真心でするのも。一生懸命お参りするのも、教えを頂くのも、結論すると、有難うならせて頂く稽古だから、果たしてこう言う様な御用の頂き方で、果たしてこういう拝み方で。
果たして現在の様な状態で、有難うなれるかと云う事を思うていなければならない。そして有難うならせて頂く事に専念させて頂く。土の中から生れた宗教。私はそれは、教祖の神様の御信心がそうだと思います。それは土偶に見る美しさ麗しさという様な物が、教祖の御信心の中に感じられる、私共はそういう信心に真実、憧れを持っているんです。
どうぞ